東京高等裁判所 昭和33年(ラ)716号 決定 1960年9月15日
抗告人 松本雅彦
相手方 松本雅典 外一名
主文
原審判を取消す。
抗告人は、
一、相手方纓子に対し、昭和三十五年十二月三十一日限り金一〇、五〇〇円を、
二、相手方雅典に対し、
(一)、昭和三十六年三月、同年九月、同三十七年三月及び同年九月の各末日限り金九、〇〇〇円ずつを、
(二)、昭和三十五年十月から相手方雅典が大学を卒業するまで、毎月十五日限り、各一、五〇〇円ずつを、それぞれ支払うこと。
理由
本件抗告の趣旨及び理由は末尾記載の通りで、これに対し、当裁判所は、次の通り判断する。
一、抗告人は、原審判の主文に対し、「申立人の大学卒業まで無期限に扶養料を支払えとは余りに不的確であり申立人が怠け成績が悪く大学卒業に十年を要しても尚扶養を続けなければならなくなります。拾年後には、父は六十六才の老令となり申立人は三十才の働き盛りとなるのです。」と主張する。しかし、(イ)、一方において扶養権利者の扶養必要状態が継続し、(ロ)、他方において扶養義務者の扶養可能の状態が続く限り、何年間であろうと、当事者が何才になろうと、扶養は継続されるべきものであり、逆に、事情が変更して、右(イ)(ロ)の何れか一方または双方が消滅すれば、当事者は、何時でも家庭裁判所に申立てて扶養に関する審判の取消を求めることができるのであるから(民法第八七七条第三項)、原審判が抗告人指摘のような扶養終期の定め方をしたからといつて、違法ではない。
二、抗告人は、原審判が相手方雅典に対する扶養の要否を、同人の大学進学を前提として、論ずることは失当である旨繰返し攻撃する。
しかし、記録によれば、雅典の父方は、祖父雅男(抗告人の父)は陸軍中佐で、退役後、東京都港区麻布北日ケ窪町三三番の一及び同番の二に宅地約二九〇坪、宇和島市の抗告人の肩書住所に宅地建物(宅地は一二一坪四五、建物は木造瓦葺二階建居宅一棟建坪四〇坪外二階一二坪及び木造瓦葺平家物置一棟建坪七坪)その他の不動産を所有して中流又はそれ以上の生活をしていた人であり、父抗告人も旧陸軍中佐で、今次の終戦で不幸失職したが、その後後段で認定するような生活をしている人であり、一方母方は、祖父江藤源九郎は旧陸軍少将で、退官後代議士にも数回当選した人で、なお、父方母方とも、雅典の伯叔父母等は、それぞれ中流程度の生活をしているものであることを認めることができる。そうした環境に在る雅典として、大学教育の普及している現今において、大学進学を希望することは、才能や健康の関係上特に進学が不適当と認めるべき証拠もない本件では、身分不相応な希望ということはできない。また、大学進学を希望する青年が、いわゆる有名大学を選択したため、一、二年いわゆる浪人をすることは珍らしくないことであるから、雅典が、東京外語大を受験して失敗し、そのため二年間浪人をしたこと(このことは記録上明かである)を以て、あながち責めることはできない。抗告人の提出した雅典の堀川資明同綾子宛ての書信(記録第一五三丁以下)によれば、昭和三十三年八月十六日、雅典は、親族の堀川資明同綾子に対し、大学進学を断念して就職することの決意をした旨書き送つたことを認められるが、当審における雅典本人審尋の結果によれば、右は、当時母満寿子は病気で失職の寸前にあり、抗告人からの送金もなく、一家は窮乏のどん底にあつたため将来に対する思慮もなくなつて、一時的にそういう考えになつたもので、もともと進学の意思がないとか、熟慮の結果進学を止めて就職を決意したというものではなかつたことを認めることができる。そして、右雅典本人審尋の結果と、記録中の上智大学々長の証明書を綜合すれば、雅典は、昭和三十四年四月上智大学外国語外部に入学し、現在その第二学年に在学中であることが明かである。
抗告人は、親が財産がないのに、子が大学に入学して、親に扶養料を払えというのは不当であると主張するが、子が大学に入学することの可否は、子を本位とし、その才能や福祉を中心として定めるべく、また、その場合、子の教育費を親が支払うべきか否かは、親の扶養能力の有無によつて決すべきことであつて、親の扶養の能否によつて子の進学の可否を決すべきものではない。なお、抗告人は、今日の大学教育は徳育を重んじないから、雅典の大学進学は、同人の人格形成に無益であるというが、独自の見解であつて採用し難い。
以上の次第であるから、雅典の大学進学及びそれがための若干の浪人生活を前提として、同人の扶養の必要の有無を判定することは不当でない。
三、相手方纓子が社会適応性に欠けるところがあり、それがため、現在までのところ、家庭外に出て就職して働くことに適しないものであることは記録上明かである。抗告人は、纓子がそのようになつたのは、母満寿子の誤つた教育の結果で、これを抗告人方に引取つて教育すれば、立直る見込は十分であるから、纓子は、これを抗告人方に引取つて扶養するのが相当であると主張する。しかし、右のような状況の纓子が、継母(抗告人の妻)や外祖母(松本米子)の許で生活することの結果が、纓子の福祉のため、果して適当であるかどうかは疑わしい。現に、原審における家庭裁判所調査官の報告書によれば、かつて、纓子が抗告人方に引取られたことがあつたが、祖母米子から冷遇され、いたたまらずして東京に帰つた事実があつたことが認められる。そうだとすれば、纓子の引取扶養は相当でない。なお、昭和三十四年五月以降、纓子の扶養の必要が消滅したことは後記の通りであるから、同人についての引取扶養の可否を論ずることも、現在では、その必要がなくなつたわけである。
四、そこで、相手方両名の扶養の必要及びその程度について考察する。
原審における家庭裁判所調査官の各調査報告書(特に、記録第九丁以下のもの、同第三四丁以下のもの、同第四四丁以下のもの)、昭和医科大学理事長の証明書(記録第三六丁)、医師柳沢裕の江藤満寿子に対する診断書(同第三七丁)及び調停調書謄本(同第三二丁)を綜合すると、相手方両名は、昭和三十三年六月頃以降(その前のことはしばらくおく、)母満寿子とともに、同人所有の建坪約七坪の家屋(敷地は借地)に住み、その生活費として、一ヵ月一七、〇〇〇-一八、〇〇〇円を要していたところ、これに対する収入は、満寿子の昭和医科大学事務員としての給料月手取り一一、八六〇円と東京家庭裁判所昭和二十九年家(イ)第二七一号扶養請求調停事件の調停に基いて、抗告人から相手方雅典に対して支払つていた毎月五、〇〇〇円ずつの扶養料だけで、他に何らの資産も収入もなかつたものであること、ところが、満寿子は、昭和三十三年七月中から病気になり、同年八月三十一日限り前記事務員を退職するの止むなきに至り(その退職金は五、四〇〇円であつた。)、一方、昭和三十三年四月からは抗告人からの前記扶養料の支払も停止されたので(前記調停による扶養料五、〇〇〇円は、相手方雅典が成年に達するまで支払われることとなつていたが、同相手方は、昭和三十三年四月二十四日成年に達した。)、同年九月以降は、相手方母子三名は、前記二つの収入とも全然ないことになつたこと、なお、雅典は、当時大学受験のためのいわゆる浪人であり、相手方纓子は前にも説明した通りの性質で、家庭外に就職して収入を得ることは覚束なく、結局、相手方母子三人は、無収入同様の窮況に陥つていたこと、以上の各事実を認めることができる。
右認定事実によれば、相手方両名か、昭和三十三年十月一日(原審判が扶養の始期と定めた日)以降扶養を必要とする状態にあり、かつ、その程度は現今における東京都における一般の生活費に鑑み、最少限度相手方一人につき、一ヵ月三、〇〇〇円は必要であつたものと認められる。そして、この状態は、次に認定する満寿子の結婚の時まで継続したものと認められる。
ところで、当審における河野満寿子及び相手方雅典本人各審尋の結果、河野正利の戸籍謄本を綜合すると、満寿子は、昭和三十四年四月二十九日、纓子を連れて、河野正利と結婚して同人方に同棲し、次いで纓子も右河野と縁組をしてその養子となり(婚姻届は同年五月二日、養子縁組届出は同年七月十五日。)、爾来纓子は河野正利の扶養を受けて別段不自由なく、生活していることを認めることができるから、満寿子の右結婚を境として、その後は、相手方纓子の扶養の必要は消滅したものというべきである。
また、相手方雅典が昭和三十四年四月上智大学外国語学部に入学し、現在第二学年に在学中であることは、前に認定したが、前掲河野満寿子及び相手方雅典本人各審尋の結果によると、雅典は、母満寿子の前記結婚に際して河野家には入居せず、唯一人姉の家に寄寓していたが昭和三十四年九月からは前記大学の学生寮に寄宿していること、満寿子が結婚して河野家に入るに当つては、それまで、相手方母子が住つでいた前記満寿子所有の家を、家賃月六、〇〇〇円で他人に賃貸し、かつ、権利金若干を受取つたこと、雅典の入学に際し、授業料その他で約四〇〇〇〇円を要したが、それは右権利金などで支弁したこと、雅典の右大学での授業料は月二、〇〇〇円、寮費(三食の食費を含む)は月六、〇〇〇円、その他の経費月三、〇〇〇円であるが、これに対し、満寿子が前記家賃を全額雅典に与えているのでこれを右寮費に充て(寮に入る前は、この家賃を雅典の寄寓していた姉の家に提供していた。)、昭和三十四年十一月から雅典が奨学金二、〇〇〇円を支給されるようになつたので、これを授業料に振向けており、結局寮費と授業料以外の経費三、〇〇〇円だけが不足なので、これは今のところ、母方の親族から補助をうけているが、雅典としては、この補助を心苦しく考えていること、なお、雅典は、アルバイトも可能な限りやつているが、今までのところ、そのための交通費その他の雑費もかかるので、アルバイトからは、差当り、あてになるような収入はないこと、以上のような事実を認めることができる。なお、右の寮費授業料以外の経費一ヵ月三、〇〇〇円というのは、現今の東京都における大学生の経費としては、最低の部に属するものと認められる。そうだとすれば、雅典の状況は、満寿子結婚後大いに好転したことは明らかであるが、それでも、前記の寮費及び授業料以外の経費だけはこれを自ら支弁する能力なく、従つて、あたかも、これと同額の月三、〇〇〇円だけの扶養を必要とする状態にあるもので、なおこの状態は、雅典が上智大学を卒業するまでは継続すべく、なお雅典が、今後上智大学から他の大学に転じた場合でも、その大学を卒業するまで、右程度の扶養必要の状態は継続するものと認めるべきである。
五、次に、抗告人の扶養の能力について考察する。
(一) 原審における調査の結果、当審における抗告人の回答ならびに内閣恩給局の回答を総合すると、抗告人の資産収入に関する原審判七の(1)ないし(7)の認定は、昭和三十三年月十一日ないし現在の事実として、その通りであると認められる。そして右原審判の認定したところによつて計算すると、抗告人の収入は月平均一一、九八一円、税金の支出六三一円その差引残一一、三五〇円で、もし、次に審判するような抗告人主張の債務がないとすれば、右の金額が、抗告人の生活費全額ということになるものである。
(二) ところが、抗告人は、原審以来、多額の負債に苦しんでいる旨るる主張するので、これを検討する。
抗告人が、原審で、松山家庭裁判所宇和島支部に提出した陳述書には、「今迄の月々の送金、家の修繕費及び生活費不足等の為親族知人等に二十万円の負債があります。」とあり、かつ、右陳述書に添付提出した証明書によると、(1)脇坂孝憲は抗告人に対し、昭和三十一年十二月十日、五〇、〇〇〇円を、利息月二分の約で貸付け、昭和三十三年七月一日現在未払利息七、〇〇〇円、元利合計五七、〇〇〇円が残つている。(2)宮城充城は、抗告人に対し、昭和三十二年十月四日一〇〇、〇〇〇円を利息月五分の約で貸付け、同三十三年七月までの未払利息四五、〇〇〇円、元利合計一四五、〇〇〇円が残つている。ということになつている。そして、右(1)、(2)、を合計すると、二〇二、〇〇〇円になるから、抗告人の前記陳述書にいうところの二〇万円の負債とは、右(1)(2)の債務を指すものと推認される。
ところで、抗告人が当審で提出した昭和三十五年十一月九日附「追加事項」と題する書面(記録第一一八丁)には、抗告人は、岡貞夫から、昭和二十九年十月六日亡父松本雅男の葬儀費及び同人の負債支払のため、三五〇、〇〇〇円を借用し、その利息も支払えずにいたので、昭和三十三年十一月現在で、元利の滞り七八〇、五〇〇円となり、その担保のため、抗告人所有の居宅の土地建物に低当権を設定した旨の記載があり、なお、右書面とともに提出した抗告人から岡貞夫あての借用証写なるものの記載によると、右のような借受けの事実があるようになつており、右証書写なるものによれば、右借用金の利息は月三分、返済期限後の損害金は年四割の約となつている。)、なお、抗告人提出の登記簿抄本によると、右抗告人陳述の抵当権設定登記がなされたことを認めることができる。また、抗告人が当審で提出した昭和三十四年六月四日附の準備書面には、抗告人がその支払に苦んでいる債務として、右岡貞夫に対する債務と、前記脇坂孝憲に対する債務とを挙げ、かつ、岡に対する債務については、その後も利息を支払わす、昭和三十四年五月末日で元利合計九四四、四〇五円となり、月三分で毎月利息二三、四一五円の支払が必要となつており、脇坂に対する債務についても、利息手払の余裕なく、昭和三十四年五月末日の元利合計約八〇、〇〇〇円となり、脇坂の要求により、止むなく、抗告人方所有の動産一切を担保として脇坂に提供した旨の記載があり、なお、抗告人提出の公証人蓮沼重雄作成昭和三十四年第四二二号公正証書謄本には、抗告人は、昭和三十四年六月一日脇坂孝憲から金七九、〇〇〇円を借用し、その担保として抗告人及びその妻イヨがその所有の家財道具衣類等約一七〇点を脇坂に譲渡し、改めて同人から使用借する旨の契約をした旨の公正証書が作成されたことを認めることができる。しかしながら、抗告人の当審における陳述には、前記原審で主張の宮崎充城に対する債務にふれた陳述は全然存在しない。
そこで、以上のような、抗告人の原審及び当審における負債に関する陳述を考察して見るのに幾多の疑問があるすなわち、
第一、抗告人は、原審では、脇坂孝憲と宮崎充城とに対する債務を述べて岡貞夫に対する債務を述べなかつた。ところが、当審では、岡に対する債務を述べて宮崎に対する債務を述べていない。岡に対する債務は、昭和二十九年十月六日借用のものだというのであるから、原審当時既に存在していたことはもちろん、その金額も元本で三五〇、〇〇〇円というものだというのであるから、もし、真実存在したものならば、原審提出の陳述書で、忘れて陳述しなかつたというようなことは考えられない。また、宮崎に対する債務は、昭和三十三年七月現在で一四五、〇〇〇円に上つていたというものであるから、これまた、真実存在した債務であるとすれば、抗告人が当審で、これを忘れて陳述しないということは考えられない。
第二、岡貞夫からの三五〇、〇〇〇円の借用金は、抗告人の亡父松本雅男の葬儀費用及び同人の遺した負債を弁済するためのものであるというが、原審における調査の結果(特に記録第一九丁以下の報告書)によれば、松本雅男は、前段(二)、でも説明したように相当な不動産を所有し、中流又はそれ以上の生活していた者で、かつ、同人の遺産中に消極財産(負債)があつた形跡はないことに鑑み、その雅男の葬儀費用やその遺した負債の弁済のために、抗告人が借財する必要があつたということは、にわかに信用し難い、殊に、葬儀費や亡父の負債弁済のためというのに、利息月三分、期限後の損害金年四割というような高利を以て、しかも支払能力の極めて低い抗告人のような者が、三五万円という多額の借財をするということは、常識上首肯し難い。
第三、抗告人のいうところによれば、貸主は、いずれも知人か親族であるというのである。そういう間柄の人が、月額一二、〇〇〇円足らずの恩給の外、何らの収入もない抗告人に、生活費の足し前にするための金を貸すのに、同情して、無利息か特別の低利で貸すというのであれば格別、月二分ないし五分というような高利又は高利に近い利息で貸付けるということも妙な話である。殊に脇坂孝憲の如きは、五〇、〇〇〇円を貸付けた金が元利七九、〇〇〇円になると、抗告人夫婦の所有する動産全部を譲渡担保にとり、しかも公正証書を作つたというのであるがもし、それが真実行われたものとすれば、正に高利貸の行為であつて、知人や親族としての行為とは受取れない。また、抗告人夫婦としても、僅かに七九、〇〇〇円、しかも、もとはといえば五〇、〇〇〇円だけの借金のかたに、家財道具から衣類全部をとられてしまうような(抗告人等には返済能力がないのであるから、その担保物はとられてしまうことは必定であろう。)契約を、真実するものであろうか。
第四、抗告人のいう通りとすれば、抗告人は、岡と脇坂とに対して合計約一、〇〇〇、〇〇〇円、これに宮崎に対する負債を加えれば約一、二〇〇、〇〇〇円しかも月二分ないし五分の利息のついた債務を負つていることになる。しかも、その支払能力たるや皆無に近いのであるから、今や、債権者の態度如何では所有不動産動産の全部を失い、裸同様でその居宅から追出されるという如き破局に直面しているものである。そういう状態に陥つた場合、というよりは、そういう状態に陥る前に、人は、通常、あらゆる努力をして、そういう状態に陥ることを回避することをはかるものである。抗告人のような場合であれば、相当な間数を有する家に少人数で住んでいるのであるから、貸間をするとか下宿人をおくとか、更に多少の不健康を押しても職業を探して働くとか、場合によつては、妻も職を求めて働くとか、極力収入をはかり、幾分でも債務の滅殺に努力するのが通常人の態度であろう。ところが、抗告人は、高血圧(尤も、抗告人提出の医師の診断書によつてもその病状の程度は不明である。)だというのであるから、激務は無理だとしても、昭和三十一年宇和島市に転居以来何の職にも就かず、自宅で三人か五人の学生に英語を教授するだけで日を送りしかもあり余る室を有しながら間貸もせず下宿もおかず、妻が職を求めて働くでもなくして過し、借財は借受け以来利息の一文も支払わずに来たという抗告人の生活振り(抗告人の原審以来の陳述を綜合すると以上のようになる。)は、とても、前記のような破局に当面した人の態度とは受取れないのである。
以上のように、抗告人の債務負担に関する陳述には、多くの疑問があつて、とうてい措信し難い。むしろ、右にも一言したように、(二階は抗告人の母が住んでいるというのであるからこれを別として、)階下には、四畳半ないし八畳の室だけでも五室を有する居宅でありながら、間貸しもせず、下宿人もおかず、夫婦二人だけで住み、夫婦とも外に出て働くことはせず、三人か五人の学生に英語を教授するだけのことで毎日を過している事実に徴すれば、実は、そういう暮し方をしても、十分に生活して行ける程度の資産収入の状態にあるものと推認さざるを得ない。
(三)以上の次第で、抗告人は、昭和三十三年十月一日から現在まで、概ね、前記(一)に認定した一ヵ月一一、三五〇円程度の生活費を以て生活して来たものと認めるのが相当である。そして、右金額から、現今の常識で考えられる抗告人夫婦の生活費を支弁すれば、その意思さえあれば、一ヵ月三、〇〇〇円程度の節約はこれをなし得べく、従つて、相手方に対し、この程度の扶養料を支払う能力はあるものと認めることができる。
六、以上のようにして、一方において、相手方両名の扶養の必要の程度は、
(1) 昭和三十三年十月一日から同三十四年四月末日までは、両名につき、毎月各三、〇〇〇円、
(2) 昭和三十四年五月から相手方雅典が大学を卒業するまでは、相手方雅典だけにつき、毎月三、〇〇〇円、
と認めるのが相当であり、他方抗告人の扶養能力は、右の全期間を通じて、一ヵ月三、〇〇〇円と認めるのが相当である。しかして、抗告人と相手方両名とは親子であるから、その扶養義務は、養育義務であり生活保持の義務であつて、その扶養の程度を定めるには扶養権利者の側の扶養必要の程度と扶養義務者側の扶養可能の程度とを機械的数字的に計算して定めるべきものではなく、双方が生活上の甘苦を共にするという立場から、権利者側の必要が大きければ義務者側は自分の生活程度を切下げてもなるべく多額の扶養料を支払うべく、一方義務者側の扶養能力が不十分である場合には、権利者側でも、極力窮乏に耐えるよう努むべきもので、なお、大学生の学費は、その親に十分な資力がない場合は、能う限り本人がアルバイト等によつて、補給に努めているのが現今の実情であることも考慮しなければならない。そして、それらの点を考慮し、上記の扶養必要額及び扶養可能額、その他当事者双方の諸般の事情を併せ考えると、抗告人は相手方両名に対し、扶養料として、
(1) 昭和三十三年十月一日から同三十四年四月三十日までは、相手方両名に対し、各一ヵ月一、五〇〇円の割合の金員を、
(2) 昭和三十四年五月一日からは、相手方雅典のみに対し、同人が大学を卒業するまでの間一ヵ月一、五〇〇円の割合の金員をそれぞれ支払うべく、そして、その支払期限は次の通りとするのを相当と認める。
右扶養料の内、既に扶養の時期の経過したものについては、抗告人としては、これを即時にも支払うべき義務があるわけであるが、前段認定の抗告人の資産生活の状況に照し、全額即時の支払は困難と認められることと、一方相手方両名としても、ともかくもその時期を経過し、かつ、その期間の生活費につき、現在その支払を迫られている負債を生じているという事情も認められないことに鑑み、これを適当な分割弁済とするのが相当と認められ、これと雅典に対する今後の扶養料の支払をも併せ考え、
1 過去の扶養料は、
イ 相手方纓子の分(昭和三十三年十月一日から同三十四年四月三十日まで七ヵ月分)一〇、五〇〇円は昭和三十五年十二月末日限り支払うこと、
ロ 相手方雅典の分(昭和三十三年十月一日から同三十五年九月三十日まで二十四ヵ月分)三六、〇〇〇円は、昭和三十六年三月、同年九月、同三十七年三月、同年九月の各末日限り九、〇〇〇円ずつ支払うこと、
2 相手方雅典の、将来、すなわち、昭和三十五年十月一日から、雅典が大学を卒業するまでの扶養料は、毎月その月の分一、五〇〇円をその月の十五日までに支払うこと、と定めるのが相当である。
七、以上の次第であるから、原審判の認定は、扶養料の金額及び支払期限の点で、一部不当と認められる。よつて、家事審判規則第一九条第二項を適用し、主文の通り決定する。
(裁判長裁判官 内田護文 裁判官 鈴木禎次郎 裁判官 入山実)